昭和48年6月30日 交通安全 大祈願祭
                               中村良一


只今、おかげを頂まして、昔風に申しますと、大祓い式の神事が、滞りなく終わったことでございます。この神事と申しますのは、いわゆる、神様ごとと言うのであって、これはあの、神道、または、小神道辺りで、やる形式を、金光教も取らせていただいて、今までは、大祓い式と言うのがあっておったけれども、まぁ、金光教的ではないというので、大祓い式と言うのを、名前を改めまして、それでもやはり、内容はね、はらえつものを出しましたり、最近では、交通禍が、非常に激しくなりましたので、交通安全の、大祈願祭と言うふうに、銘打って、ま、お祭りが仕えられるわけでございます。
この、神事と言うのは、一つの形式を重んじるのでありましてね。これはあの、実は、大変な、一つの、人間の力以上の力と言うものが、現れるのが普通です。例えば、一番、端的に申しますとね。あの、鎮魂と言う神事を致します。魂を鎮めるという。例えば、同じ、ほんなら、五匁なら五匁の石をね、お供えして、それをあの、神事を行いますと、それが、五匁が、六匁にも、七匁にもなる。いや、そりゃ、匁は一つも変わらなくてもね。計りに計って、一つも、これが、水平線から、こうもこうもならないという様な、不思議な働きがあるもんです。神事に。だから、この神事というのも、金光教的ではないと、私は言えないと思うですね。やはりあの、拝むことから始まるのが信心なのですから。ね。そういう意味においてです。大祓い式は、大変大事な、私は、お祭りだと思います。
もう、二十三四年も前でございましたでしょうか。あの頃は、信心の共励会が、まぁ、あっちこっちであっておりましたのに、私が、まぁ、先頭に立って参っておりました。あるあの、福岡の秋永先生所での、共励会の朝でございました。あの時分はもう、夜通し、お話をさせていただくんです。皆さんももう、夜通しに、もう、あの、お話を聞いてくださる。まぁだ、一番電車には、まぁだ、ちょっと、時間があるから、ちょいと横にならせて頂こうと思いまして、ちょいと横にならせて頂いたら、はっと、気が付いたところがもう、あの、一番電車の音が、ゴーっともう、あら、電車が来とる、一番電車だ。時間を見ると、ちょうど、一番電車が通る時間なのです。けれども、ほんの、今、眠ったばっかりだもんですから、もうその、眠たいのときついのとでね。また、うとうととした訳です。そしたらね。もうはっきり、当時の金光様、いわゆる、三代金光様のおかげでね、あの、お声でね。「神様が見てお出ででございます」と言うお声。その中に、神様が知っておいででございますと言う内容も感じるようなお声でした。私が、夕べ、夜通しにお話をしたことも、ね。一生懸命に、信心に打ち向こうたことも、神様が見通し、聞き通しなのだと。もう、びっくりして、起き上がりましてね。次の、車で帰らせていただいて、椛目のほうを奉仕させて頂いた事がございます。
これは、久留米の、三橋先生が、亡くなりまして直ぐの頃でございました。あの時分、私は、横に、決して、横にならないという修行をしております時ですから、控えに下がっても、眠る事を致しません。もとあの、椛目の楽室のほうへ、三橋先生が、いつも、あそこでお茶をしてくれておりました、あの、お茶の、火鉢の前で、座らせていただいて、何時の間にか、眠ってから、横座りが、ちゃんとこう、横になって、寝てしまっておる訳ですね。そしたらね、お夢の中に、はっきり、お装束を着けた三橋先生がね。こう、いたぐらみをしながら、もう、それは、なんとも言えない、それこそ、眠り人形のような、可愛らしい格好で、眠っておるところを頂いた。もう、はっと思うて、目を覚まして、神様にお届けをさせて貰うたら、「お前が眠ると、御霊も眠るぞ」と、神様が仰いました。御霊も眠るぞと言うことは、御霊の働きと言うもの。これは、神様の働きと言うても良い訳なんです。私が、眠っておったら、神様も眠りなさるぞと。もう、それなんです、信心とは。ね。まぁ、そういう例は、お話をするなら、限りがない事ですけれども。そういう中からね。神様は、何を、そのように、眠らせることも、ちょっと眠らせることも、ね。または、夕べは、あんなに疲れて休んだばっかりなのですから、もう、よかよか、眠らせとけという様なのじゃなくて、ね。その、きついこと、苦しいことはね。神様が、見ておいでですよ、聞いておいでですよと。それは、いうならば、神様が、全部、受けておって下さるのですよと、ね。あなたが眠っておると、御霊様までも、ちゃんと眠ってしまうよと。例えば、ほんなら、先生が、言うなら、眠っておれば、信者も眠るという事なんです。ね。そういう、例えば、その、一事の例から、どういうものを、皆さん、感じなさいますか。なるほど、この神様はね。這えば立て、立てば歩めという、親心の神様であることを感じるでしょう。分かるでしょう、ね。
そこで、信心の眼目と言うものが、ね。今朝からも、ここの村内から、毎朝、朝の御祈念の後に参ってくる娘さんがおります。今日は、妙な事を言うんです。先生あの、信心はしよらんでも、やっぱ、やっていきよりなさる人は、やっていきよりなさる。例えば、大祓いの、はらえつもの出さなくっても、ね。自動車のお祓いを受けなくっても、ね。やっぱり、無事にやっていかれ、まぁ、という人達もありますが。このごろ、信心が分からんようになりましたと、こう言うのです。あーた、分からん様になったからと言うて、まぁだ、朝、参ってくるようになってから、二ヶ月か、三ヶ月ぐらい。分かるはずもない。しかも、お勤めの行きがけに参るのですから、お話も頂かないぐらい。月次祭には、必ず、参ってくる。という程度で、分かるはずがないのだけれどもね。けれどもね、まぁ、そんな難しいこと言うたって、私も、どげん言うて説明してよいか分からんばいち言う。大変、難しいことですもんね。そう言われてから、返事の仕様がない。けれどもね。こら、私が信じておる、私が、分かっておることならば言えれる。けれども、みんなが信じてない、分かってないことであるとするなら、言うても同じこと。けれどもね、私が、信じておること、私が分かっておることはね。信心と言うのは、ね。結局、この世では、五十年か、七十年、まぁ、せいぜい長生きして百年だ。ね。私共が、この世、極楽と言おうか、いよいよ、魂の清まることを楽しみに、信心の稽古をさせて頂いてです、ね。この世ではない、あの世までも、繋がるところの、いわば、限りないおかげに繋がるところの元を、私共は、この世に生を受けたという事は、ね。そういうおかげを頂くことのために、この世に生を受けたんですよ。これは、私が信じておること。この世に生まれてきた、生き甲斐と言うのは、ね。何十年、ここで、お生かし頂くか分からんけれども、御教えを頂いて、御教えに即したという事は、天地の心に即応した。天地の心を心としての、生き方を、この世で治めておる。魂が清まってくるところからは、腹を立てんで済み、愚痴不足を言わんで済み。ね。欲をせんで済むようなおかげを頂いた時に、初めて人間は、極楽という事が言えるのです。腹を立てんで済み、愚痴を言わんで済む、欲をせんですむという事、ね。そういう、心の状態を極楽と言うのである。そういう心の状態がです。段々、はっきり、自分のものになってくるという事。いやぁ、去年よりも今年。なら、来年は、もっと有難くなれるぞ。もっと愚痴不足を言わんで済む私になるぞという様にです。楽しみが出来てくる。ね。信心はね、信心の稽古と言うのは、それが眼目なのだから。だから、その、神様を分かってない、信じてない人がです。参りよったっちゃ、拝みよったっちゃ、やはり、信心しよっても、病気したり、事故にあったりする人もあるし。信心はなかっても、事故にもあわない、段々、儲け出しておるという人もあるし、ね。だから、神様が、分からんごとなりましたという人には、どう説明して良いか分からない。まぁ、私の信ずるところを、お話をするより他には無い。ここでは、その私が、信じておることを、皆さんも、段々、少しづつ、信じていただく稽古をなさるわけでございます。そして、事実、しらごっじゃ無かろうがの、ほんなごっじゃろうがの。こういう状態なら、こういうおかげが受けられるという、一つの実証、ね。そういう証を立てながら、私は、皆さんに、お話を聞いてもらい、また、お取次ぎをさせて頂いておるのでございます。ね。
二三日前、朝の御祈念の時に、今日の大祓い式の事を、神様にお願いする。明日から、七月一日、明日から、また、夏の修行が始まります。一時の時間を合図に、それこそ、ひと汗流そうという御祈念会でございます。それを、夏の修行と致しまして、三十日間、これはもう、全教一斉に、この修行が行われます。ですから、信心には、やはり、修行が付き物。ね。その修行に、お徳も頂け、力も頂く、おかげも受けるのでありますから。これは、一つ、本気でさしてもらわにゃならんと言うことのことを、神様にお願いさせて貰いよった。そしたら、お知らせにね、あの、レモンですね。みかんの、レモンを二つに切ってくださるところを頂いた。大祓い式のことを、神様にお願いさせて貰いよったら、その、半分に切ったのを、うんとこう、こういう風にして見せて下さる。こうやって見せて頂くと、中がこう、菊のご紋章の形になりますよね。みかんは、一切そう。レモンもやっぱり、そうです。ははぁ、どういう事だろうか。それからまた、一日からの御祈念会のことを、修行の事をお願いさせてもらいよりましたら、もう一つのレモンのほうを、ぎゅっと、絞るところを頂いた。それで、私は気が着いた。ははぁ、ね。明日から行われる夏季修行というのは、それこそ、身を削り、心を絞って、それこそ、身体の上にも、それこそ、淋漓と汗を流して、もう一生懸命、この、お広前の畳が濡れるくらいにね。一生懸命、頑張ったその、御祈念をなさいます、皆さんが。ね。これが、ははぁ、これは、絞ったところを頂いたんだ。そすと、二つに切ったというのは、いわゆるこの、菊の花のそれを見せて下さっただけなのです。ですから、大祓いというのはです。いうならば、あの、いわば、切らなければなりませんけれども、もう、そのまま、神様が受けてくださるという感じです。ね。
皆さんの中にも、沢山、日頃は、お参りも全然ないけれども、この、大祓いの時だけは、もう、合楽の大祓いが近付きますでしょうと言うて、その、催促されるような方達が、段々、出来てきた。ね。始めは、皆さんが、ね。あそこの知合いの家にも、あの親戚にも、ね。はらえつものを配っては、分からんから、ね。自分でお初穂させて貰うて、あんたがたん車は、何ちいう車のち言うて、わざわざ、そうしてから、こうしてあげておったけれども、もう、ここで、五回もお祭りを使えるようになりましたら、いうならば、その実があがってきた。なるほど、去年、あーたから、はらえつものを、いただいとったけん、おかげで、無事息災、病気もしませんでした。おかげで、自動車も、事故にも合いませんでした。ね。例えばあの、熊谷さんところの、親戚関係になる方のところなんかは、こら、去年でしたけれどもね。もう、それこそ、自動車がもう、大変な深いところに落ちて、転んで落ちたけれども、かすり傷一つすらしなかった。そん時の御神米が、自動車に、ピットこう、お祭りしてあったと。もう、本当にもう、命拾いをしたと言うて、まぁ、そういう例は、幾らもあります。ね。
そういうね、例えばその、おかげが分かってきた。例えば、はらえつものを出しときさえすれば、ね。頼んどきさえすれば。だから、ただじゃ勿体ないけんち言うて、この頃は、ほんなら、金の五百円も、金の千円も、お供えしてくださいと言うて、もう、お参りもしてこんけれども、いわば、熊谷さんとこだけでも、十何軒ありました。文雄先生とこ辺りも、沢山、お得意さんか何か知りませんけれども。そういう、もう、毎年、お願いをなさる方の、はらえつものを預かって、交通安全の、あの、はらえつものを預かって参ってきておる。ね。それを、それだけしても、おかげ頂いとるけんじゃろうぐらいな事。おかげで去年は、無事故でおかげ頂いた。今年も、どうぞ、お願いしますという様にです。と言うことはです。ただ、二つに切っただけで、おかげになると言う。それは、先ほど、私が申しますようにね。この、大祓い式と言う、一つの神事ですね。お祭り前に、あの、何時ものお祭りとは違った、あの、祓いど主が前に出まして、そしてその、御祈念があります。ね。それで、私は、御神米でも、一応、あの、この今日の御神米と、あの、交通安全の御神米だけは、特別に御祈念してありますから、ね。お祭りが終わって、御祈念が終わった後に、ね。皆さんにお配りしようと思うて、あの、全然、差し上げてありません。だから、今日は皆さん、ここが涼しいですから、いっぱい、空いてるから、ここで、順々にね、頂いて帰っていただきたいと思うんです。先生方が、四五人ぐらい、ずっと並んで、お渡ししますから、良いと思うんです。ね。という様にです。
例え、ほんなら、はらえつものを、ただ、お願いしますと言うて、出しただけでも、ほんなら、息災なおかげが頂けておるのであり、または、無事故のおかげを頂いておるのであり、いや、事故にはあったけれども、とてもとても、これは、ただ事とは思われないという様なおかげを頂いておる。ね。
そこの合楽食堂の息子と、あの、高柴さんところの、一番下の、守秋さんが、朝の御祈念のお参りの帰りに、あん時に、百どがしこぐらい出しとった。帰りがけ。もう、私は、去年、皆さんに言うとったはず。もう、幾ら神様にお願いするち言うたってね。言うならその、ルールを守らなかったら駄目です。ね。いうなら、ちゃっと規則がある。ここは、五十なら、五十しか出せんとこならもう、そこのところをね。この頃あの、岡崎さんが、あの、関さんところの、宅祭りの時の帰りに、送っていただいた。話しておられました。この頃から、ある学者の方が、二人。お医者さんである。久留米から、大牟田までですね。もう、出しっぱなしに出したのと、普通、ルールを守って、あの、走ったのとがね。どれだけ早く着くかを、試しなさった。ところがね。もう、それこそ、出しっぱなしに出して行った人が、そこで小便をまって、終わった時にはもう、次の、ルールを守ったのがやってきた。たった、小便まる暇だけしか違わじゃった。(笑い)岡崎さんから、聞いて来とられます。ですから、むちゃくちゃに走らせるもんじゃありませんち。ね。もう、絶対、事故に合うとは、そのところをその、無視しとる人達ばっかりですよ。という事は、ほんなら、神様の心にも反しておるわけなんです。それでも、やはり、お祓いを受けとるし、信心をさせて頂いとるからです。それこそあなた、電柱をへし折ってしまって、それから、何回転かして、その下敷きどもなっとるなら、一遍でしょうばってん。どういう風にして出たかね。一人は、畑の向こうのほうへ、こうやって、もう、大の字なっとった。それでも、こら、終えとるじゃろうかと思って行ったら、どうもしとらじゃった。それでも、やっぱ、そこここを、かすり傷してますから、お医者さんに行って、今日はあーた、金光様の帰りに、こげんじゃったち言うたら。そうりゃ、あんたもう、金光様のおかげばのち言うて、お医者さんが言わしゃったと言うんです。そりゃもう、間違いないそうです。いや、この頃、お医者さんも、大分、神様のね、ご利益と言うことをわかりなさる先生方が多くなってきました。ね。と言うようにね。だからもう、本当にもう、例えば、この、大祓い式なんかと言うものはもう、今朝から、私、皆さんに申しましたが、それこそ、だっごへっごと、この辺では言います。抱く子も、這う子も、今日という今日は、みんな一つ、お祓いを受けさせて頂かなければね、気が済まん。いや、それによって、素直に有難いという心が、私は、清らかな心で、神様を、純粋に信ずるんだと、私は思うです。ね。
そら、信心の段階にもありましょう。お願いしときますと言うて、はらえつもの、出しただけでもおかげは受けられる。ね。ほんなら、代表で、一人参ってきたら、それでも良い。けれどもね、信心とは、私は、素直に、ね。純粋な心で、ね。神様の働きを信ずることだと思う。それを、清らかに、例えばほんなら、今日の神事を信ずるならばです。例えばほんなら、学校を休ませてからでも、やはり、そうしなければおられないのが本当ですよね。信じておるというても、ね。代表で行きゃ、おかげば頂くという事は信じておるけれども。神様の、本当の働きを信じたらば、その、いわゆる、神様のね。そういう神事に間に合わなければ、それこそ、家族中のものが、それこそ、十台の車持っておるなら、十台を、ここに並べて、祓うて貰わなければと、おれない素直な心こそが、おかげをいただく心なのです。ね。私共の、信者時代はそうでした。もうそれこそ、だっこへっこ、もうそれが、楽しみでした。そしてもう、はっきりその、印を頂きよりました、その当時は。
ある時の、福岡の教会の大祓い式におかげを頂いた。家内も子供も、みんな一緒。帰ったら、裏の木戸が開いてるんです。はぁ、可笑しいなと思って、入りましたら、もう、押入れから何から、こう、あさり散らかして、誰かが来とるごたる風。お客さんのあっとる、ね。見てみたところが、みな、その時分に、あのお店の方が三人居りました。私のを含めて、四名、それから、子供達の、何か洗濯物のようなものも、家内が、後から、なくなっとると言う。上着を取られた人もおる、ズボンを取られた人もおる。ね。開襟シャツを取られた人もおる。もう、とにかく、みんなのを、一点づつ取られとったです。もう、そん時に、ほら、お参りしとらすとに、どうしたこつじゃろかとは、もう、さらさら、思いませんでしたね。はぁ、大祓いの、その威力というものは、素晴らしい事だなぁと思うた。今年、一年中の事がです。ほんなら、上着だけで、おかげで、お祓いの印を見せてくださる。祓いですから、祓いじゃ、祓われておる。ね。そのようにもう、目に見えてです。そういう働きを、善しにつけ、悪しにつけ、頂かせて貰うことが有難かったです。ね。
昨日、二十九日は、敬親会でした。お年寄りの方達の会合です。二時間あまり、私も、かてて頂いて、色々、お話させていただいて、最後に、私は、立ち上がります時に、せっかく、もう、今日、皆さんが楽しんでおいでる。ほらやっぱ、楽しいですもん、みんな。家は豆を煮ました。家は牡丹餅を作りました。沢山、色々持って見えるんです。そして、お婆ちゃん達が、月に一回会うのがもう、こよない楽しみのようである。そして、先生のお話を聞かれるという。聞かれるとは思やせん、私はもう、お年寄りの方達のね。その、お話を聞いて下さるのが。お話を、私が、この頃、あの、ここのね、欲をね、欲を捨てると問題がなくなると話をしたのです。そしてあの、ここの、入り口のあの、何ですか、あの、あれは、さんご樹ですね。さんご樹の芽を、この頃、貰い手がとても多いんです。ね。それでその、誰がやるというたか知らんけれども、お酒を二本持ってきてね。そしてあの、月末に貰いくるけん、どうぞ、よろしくお願いしますと。全然知らん、山持ちの人か何かが、持って来とるです。そげんあんた、お酒二升も持ってから、貰いにくるち言うて、十三日会の日に切って貰わなければ困るがち言うて、言いよりましたら、あの、ちょうど、妹が参ってきて、あらあの、椛目の宮崎さんにも、私はあの、言われとったから、ほんなら、私が、相談しときましょうち言うとった。そうら、どうするの、けども、向こうの人も、わざわざ貰おうと思うて、何してあるから、ほんなら、今度見えたならね、あの、お酒をかやしなさいと、私が言うた。二本。そしてから、せっかくじゃけん、半分のほうだけ取ってくださいと。半分な、椛目の宮崎さん方に上げるから。半分とって下さい、ね。そして、お酒は、こうやって、お返ししなさいと、私が言うた。ね。したら、そりばってん、半分あぐるなら、あーた、一本ぐらいは、一本な貰うたっちゃ良かろうもんといいますけれども、そげなこつはいかん。もう、そげなこつ言うところへ、しゃっち、あげんお願いしとったつにとか、何とかと言うて、問題になってくる。で、こっちが、よく話して、もう要りません。それでもせっかくじゃから、半分だけ取ってくださいと、いや、もう、文句を言うはずもない。なら、椛目のほうの宮崎さんも、それで合点が行くだろう。もう、来年から、もう、誰にも、やらんことにして、なら、宮崎さんなら、宮崎さんだけ、取ってもらうことにしようと言うて、その話をしたんです。だから、私は、欲をとると、ね。欲を取ると問題がなくなるという話をしたんです。はぁ、ところがもう、今度は、植木の話になった、それから。そんなら家にも、そら、ちっとばっかり貰おうとかね。はっはは、もう、かえって、欲の出る話になってしまいます。もう、頂きどころを間違いますと、そうです。私はね、欲をとると問題が無くなるということ。そこで、私が申しました。ね。
せっかく、月に一回づつ、半分ぐらいは、いつも参ってきなさる方がありますけれども。本当に、月に一回だけと言う人達がありますから。もう、この次の、一回のね、お参りの時に、体験発表をして貰う。必ず、体験が生まれる。何か、信心修行を一つ、思い立ちなさるとよかですね。最近、合楽では、もう、本当の極楽という事は、ね。腹を立てない、ね。愚痴を言わない。欲をしない。これが、極楽だという事を言ってるから、まぁ、どれか、いっちょでん、どうですか。皆さん、あーた達の、よかつばいっちょ、あの、行じなさることにしなさったらどうですか。そしたら、椛目の宮崎さんが、一番口手を上げなさいました。ほんなら、私はいっちょ、欲を、今月はいっちょ、来月から捨てましょう。はぁ、それは素晴らしい。もう、大体、欲は、全然ありなさらんようなお方ですけれどもですね。やっぱ、まぁだ、実際は、欲があるわけ。ね。ですから、お婆ちゃん、財産を沢山持っておられる。ね。だから、その欲を捨てると言うことが、どういうことになってくるやら。一つ、一貫、欲を捨てると言うことに、焦点を置きなさる、ね。腹を立てん、愚痴を言わない。色々に、皆さんが、この一月だけは、一つ、本気で修行させて頂こうという事になりました。
ある、お婆ちゃんが言うておられます。もう私は、なーにん、いう事はなか、ありがたかばーっかりじゃからち。もう、何からかにまで、有難いばっかりだから、ね。それも良い。そんならその、有難いという心でね。何か、どげんかせにゃいけませんよち。有難い、有難いばっかり言うとったっちゃ、なーにんならん。ね。だからその、有難いという心で、何かを、少しは現しなさい。あぁ、そげん言われると、ほんなら、いっちょ、そげな風にしましょうという様なことでしたけれどもね。信心と言うものが、私共の、ね。生活を、いわば、豊かにする、ね。潤うてくる。それには、先ず、なんと言うても、心が豊かにならなければなりません。ね。身体が、痩せきれておって、そして、その、力を出せと言うても、出すほうも無理し、または、出せるものではありません。ね。ひぼかしのごとしとってから、ね。どうぞ、力をくださいというのは無理であります。ね。ですから、先ずは、太らなければいけません。ね。そして、力を頂かなきゃならん。ね。もう、そらもう、そうですよ。ね。今日はあの、大酒大食は、絶食の元と仰る、あの御理解でしたけれどもね。幾らに、大食とか、大酒とか言うけれどもです。ね。
例えば、私、今朝から、文雄先生と二人でご飯を頂きましたが、文雄先生はもう、ほんないっぱい食べりゃ、腹いっぱいなるとじゃもん。こっちは、二杯なっとん、食べたっちゃ、まぁだ足らんぐらいにある。だから、文雄先生が一杯半食べたら、そら大食です。ね。繁雄さんが、一緒に頂きましたが、ほんなら、私が一合のお神酒を頂いて、ちょうどいい加減になる。なら、繁雄さんな、盃三杯飲みなさったら、もう、酔いすぎなさる。一杯でちょうどよかっじゃ。もう、だから、盃三杯飲みなさりゃ、もう、大酒である、ね。だから、大酒大食と言うのは、沢山飲むとか、沢山食べるという事じゃない。ちょうど良いという事なんだという様な御理解でした。ね。だから、信心においてもそうである。私共の、いわば、心を、先ず、沢山頂けれるおかげを。それには、四神様の御教えにありますようにです、ね。竹の筒にはボウフラが湧く。大海には、鯨が住もうがと仰る。ね。それには、先ず、大海のような、大きな豊かな、大きな心を頂くことを、先ず、願わなければいけない。ね。汗の出らんごと、汗の出らんごとと言うて、お願いして、水ば、がぶがぶ飲みよら、汗は、絶対出るとです。ね。ですから、どうぞ、汗の出ませんごとという様な願いは、可笑しいでしょうが。そんなら、水を止めんかと言うことになるのです。ね。だからその、根本のところをです。だから、私共が、大きなおかげを頂きたいならば、やはり、大きな受けものをいただかなきゃならん。鯨の住むようなおかげを頂きたいなら、大海のような信心をさせてもらわにゃいけん。ね。ちょこっと、汚いものが流れてくると、もう、それを、向こうに押しやろうとするような、小さい、ちっぽけな心では、それこそ、ね。こんくらいなつしか住まんと言うこと。ね。こんな大きなおかげを頂くためには、こんな大きなおかげの住むだけの受けものを作らなければいけない。ね。そこのところのです、信心が、私は、眼目と言うものが、はっきりしてないと、楽しみがないと思うです。ね。なるほど、腹を立てんで済む、愚痴を言わんで済む、欲をせんですむ、簡単な事の様だけれども、なかなか出来ない。けれども、例えば、それを、ぐうぐう言うて堪えておるというだけではいけん。
今朝からも、ある夫婦の方が、朝の御祈念の後に、お届けをされるんです。最近、毎朝お参りをさせて頂いて、この頃、毎日のように、いわば、この世で、極楽に行くために、一つ、腹を立てんで済む、愚痴を言わんで済む、欲をせんで済むおかげを頂かにゃいけんと言われるから、もう、私は、その日を境に、腹は立てんぞと言う修行を始めましたと、こう言う。ところが、息子が来てからもう、言うこと言うこと、もう、こっちが、腹かくまで、どうか言う。もう、そりゃもう、本当に、もう本当に、涙ん出るごたる、親としては。それでも、何日間かは、はぁ、ここは、腹を立てちゃならんと思うて、辛抱したけれども、ね。もう、昨日ばかりは、堪忍袋の緒が切れましてね。もう、お前のごたる奴は、ここに来てもらう事は要らんち。ね。もう、明日から、来るなと。ね。と言うて、私の癇癪球が破裂したと言うお届けがありました。なるほど、そう言われりゃ、腹の立つのが当たり前。けれどもね、そういう時に、信心が分かっておらんと、そういうことになる。ただ、辛抱だけではいけないと言うこと。
例えば、ほんなら、私の子供達の場合でもそう。ほんなら、私が、若先生を見てから、そら、目に余ることも沢山ある。ね。例えば、ほんなら、朝の御祈念を終わる、ね。そして、もう、自分の仕事は済んだというごたる、つーっと、ここから見よるともう、裏さん行ってしまう様な事がある。もう、そげん時には、本当に、悲しい思いがします。さぁ、これから、本当、今日一日の御教えを頂いて貰わんならんと思う。しかも、一番肝心要の若先生が、つーっと、裏さん行く。ね。そして、そげん心を痛めておる時に、ね。どうした奴じゃろうかと思わずにです。結局は、それは、私の事としてです。神様にお詫びをさせていただく心になってくるとね。同時にまた、私が、もっと力を頂いて。もっと、私が、ね。より助からなければならないという心が湧いてくる。そすと、神様に、お詫びをするより他に無い。そうしよると、また、ひょろっとやってくる。まぁ、そん時の有難さ、ね。もう本当にそうですよ。いいや、そしたら、その方も言われるんですよ。もう家に来るなと。もう、お前のごたる奴は、親に、そんな事を言うから、もう来るなと。けれどもほんなら、あくる日、来んと、また淋しゅうなるとこう言う。親ちゃそんなもんです。ね。そこで、どうした奴じゃろうかじゃなくて、自分の心の中に、どうした奴じゃろうかば、発見しなければいけません。自分の、若い時のことを思うて見なさい。信心がなかった時代のことを思うて見なさい。ね。今こそ、自分が、色々分からせて頂いて、それこそ、腹は立てんぞ、愚痴は言わんぞという様な修行にでも取り組もうかというくらいに、信心が分かってきたけれども。息子がもう、それこそ、腹を立てんと思うたらもう、腹を立てるまで、どうか言うほどしの、はっきりした働きを頂いておる。ね。だから、腹を立てんと言うたら、もう、もう、その場で極楽に行くっじゃない。それが、本当なものか、本当なものでないかという事を、試されるのだ、神様は。また、試されるね、神様は、お試しになる義務を、神様は、感じなさる様である。ね。そして、確かなものと、見極めた時に下さるのが、お力であり徳である。または、おかげなのです。ね。それはもう、本当にそうです。
今日のあの、お祭りでも、今日はもう、先生方が、きちっと、一時にはもう、あの、時間励行で始められるところになっとりました。そこへ、徹君がやってきました。ほんならもう、せっかくならば、早うちょっと、装束を着けなさいて。と言いよるところに、あの、田中さんが、楽員の田中さんですね。あの、合楽の田中さんがやってきた。今朝から、なるほど、お届けしておった。ね。半日で休ませて貰って、走って帰ってくるからという様なことである。それを、やはり、ちょっと時間を遅れてやってきたというわけです。ね。なるほど、一時の御祈念が、きちっと、例えば、仕えられたら、私は、嬉しいことであった。有難かった。ところが、そこへ、ほんなら、二人の者が、遅なってやってきた。だから、はぁもう、本当にあの、さっき申しました。あの、田中さん、おかげ頂いたね。徹君のおかげであんた、今日は、楽に間に合うた。大祓い式に、あんたが、せっかく帰ってきたつに、間に合わじゃったち言うなら、気色の悪か。その気色の悪かち言うとが、おかげ頂かんことになるとじゃから。ちょうど間に合うて、おかげ頂いて良かったね。徹君も、ちょうど、間に合うて良かったね、と言う。そこからの信心がね、今度は、私が、一時に間に合わなかったということに、私自身がね、また、反省をさせてもらう。けれども、その反省の次には、もう次の手掛かりがです。お礼を申し上げることが、二人の者が、間に合うたというおかげがあるのです。信心と言うものはね、そういう微妙な働きの中から、繰り返し繰り返し、より難しい、より本当な、ね。より有難い信心を進めさせて下さろうとする働きが、必ずあることです。ね。これは皆さん、そこんところを体験していきませんと、信心が進みませんし、信心が楽しいものになってきません。なるほど、神様が、這えば立て、立てば歩めと仰る。いわば、心情というか、心の情というものを、現して見せて下さることを分からなければいけない。ね。
一番初めに、聞いて頂きました様に、ね。私が、夕べは、本当に、ちょっとしか眠ってないことをご承知です。もう、けれども、普通で言うならば、もうそのまま、がたっと寝てしまうんですけれども。寝ろうとするところへ、神様がね、神様が見てお出ででございます。ね。神様は知っておいでですよと。あなたが修行をしよることを、神様は、みんな受けて下さってあるんですよと。そんならと言う元気が出て、次の信心に飛躍していくことが出来るでしょう。ね。例えば、只今、こういう修行をという修行をね、したら、神様は、必ず、受けてくださるんです。ね。それが、段々、信心がおだれてくれば、くるというか、信心が高度になってくればとでも言うか、ね。それは、それぞれ、違いますけれども、ね。神様の、そういう働きは、何時もあっておるのです。私が、眠っとりゃ、御霊様までも眠りなさるばいと、神様が。もう、御霊様が眠っちゃ出来んと思うから、また、改めて、ほんなら、眠たいのに、顔を洗うてでも、あの、しゃんとせにゃ出来んという事になってくる。ね。そこに、神様の、限りないおかげを下さろうとする働きを感ずるのです。大祓い式という神事は、今、申しますように、ね。それを、受けるというだけでも、いうならば、はらえつものを託けたというだけでも、おかげが頂かれるという事は、神様を、信じて欲しい、神様の、そういう親心の現われだと思うです。ね。だから、信じたら、分かったら、もっと、より信じ、ね。いうならば、神の杖をつけば安心じゃと仰る。竹や木は折れる、神を杖につけば安心じゃと。
例えば、私共の場合が、どんな場合であっても、安心が出来るほどしの神様を頂かせて貰うという事。それほどしの神様を信じれたらです、ね。神様が、信じれたら、家族中でお祓いを受けなければおられんのであり、持っとる車の全部を持ってきて、祓いを受けなければおられんのであり、神様の働きを信じたら。ね。ほんなら、信じていないじゃない。けども、本当に信じたら、そうしなければおられないという事になるのです。ですから、大祓いというお祭りは、いうなら、ピンからキリまでの人が、させて貰えれるお祭りだということになります。
いよいよ、明日から、いわゆる、夏の修行が始まります。ね。お互い、とにかく、日頃は、日参が出来ない方達でも、一つ、本気で、夏の修行に取り組ませて頂いて、神様から頂きます、いうならば、レモンのね、いうなら、大祓い式が、ただ、見せて頂くだけのこれならばね。レモンを二つに切って、見せていただくだけの、菊の花の、いわば、おかげというだけにしかないのでしょうけれども、ね。明日から、始まるところの修行というのは。それこそ、実を絞り、心を絞って、ね。それこそ、汗を搾って、御祈念の修行をさせていただきたい。ね。そういう修行がね、やはり、自分の身に付いて来る。自分の信心の、血に肉になることをね、体験させていただく事によって、いよいよ、神様が、信じられる。神様が、いよいよ分かる。信じておるというても、今申します、ピンからキリまでなのですから、ね。例えば、去年お願いしたら、今年も無事息災じゃったから、どうぞ、御願いしますというのも、神様を、ちっとは、信じ出してきたわけですね。という様なところからです。いよいよ、ぎりぎりの神様を頂かせていただくことによって、私共の心の、いうならば、清まり、魂を清めていくことの、いよいよ、楽しみと言うものが感じれ、また、頂けれるようになる。ね。そこに、信心の喜び。この世だけのことではない。限りなく、何時までも、あの世にも持って行けれるというか。この世にも残して置けれるというほどしのおかげが頂けれるのでございますから、ね。そこが目指される眼目というものを、そこに置いての信心にならせて頂かなきゃいけません。どうぞ、ここで、帰りのあの、はらえつものの、お移りを差し上げますから、どうぞ、頂いて帰っていただきますように、どうぞ。